学校法人 ロザリオ学園

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2026.02.18 ロザリオ学園 ブログ

ロザリオ学園 ブログ

門をくぐるたび、子どもたちの靴底が砂を鳴らし、また眠たげな声で飛び交う「おはよう」が朝の光を跳ね返す。ほんの数歩先で握り合わされた親子の手がほどけ、やがて小さな背中が園庭へ散っていく。その瞬間、「いま目の前で生まれているものは何だろう」と私はふと立ち止まった。安心、成長、期待・・・・どれも近いけれど、どこか違う気がする。

もしかするとそれは『絆』という、形も温度もあいまいなものかもしれない。だが、そもそも絆とはなんだろう。

そんな疑問が胸に芽生えたのは、制服を替えてロザリオ学園本部に来たからだ。赤い消防車を降り、代わりにこの学園の制服に袖を通した日からだ。ホースの重みを知る胸に、いま握られているのは門の鍵だけ。現場で命を繋いだ張り詰めたロープのような絆は姿を変え、ここでは子どもたちの笑い声がゆるやかに結び目を作っている。そんな不思議な温度差に、私は少し戸惑い同時に強く惹かれてた。

思い返せば火災現場での絆は、背中合わせに火圧を受け止める”防壁“そのものだった。

視界ゼロの倉庫で、ホース先端隊員はお互いのロープを頼りに進み、私は隊員の呼吸を頼りに踏みとどまる。倒れかけた瞬間には、無言で肩を叩くだけで意思が通じた。あれは優しさではなく、生き残るため互いを器具として握り合う硬質な繋がりだ。

ところが、ここで私が今感じている絆はまるで質感が違う。朝の門で親子が手を離すほんの一瞬、子ども同士が視線を送りあう合図、先生がそっと肩を叩く励まし。

張り詰めたロープではなく、陽だまりに伸びる糸のように柔らかい。けれどその糸が幾重にも重なり合うと、炎さえ寄せつけないほどの大きな力に変わるのだ。

そう気づいたとき、私は「絆」という言葉の幅をようやく理解した気がした。

園内の避難訓練では、非常放送設備のベルに音が鳴ると同時に園児がお互いに手を握っている。押さず、走らず、でも離れず。その合図だけで列は動き出す。私は最後尾で見守りながら、かつての現場を思い出した。水圧のかかったホースを数人で支え、倒れそうな仲間の身体を押し返す瞬間。「一緒なら怖くない」。炎の熱気の中で信じてきた言葉が、いま静かな園庭で同じ重さをもって響く。あの時握ったホースは重かったが、子どもたちが結ぶ指先のほうがずっと確かな“力”を伝えてくる。

午後になると、絆はさらに姿を変える。ジュースの残りを分け合い、ツリーハウスでの滑り台の譲り合い、転びそうな友達の背中に手を添える。私はそれらを声高に褒めはしない。ただ下園時、保護者に小さなカードを手渡す。「今日、お子さんが誰かのヒーローになった場面です」。カードに書かれた短い一文は、帰り道で交わされる親子の会話をそっと温める。

家族が共有した『よくできたね』の記憶は翌朝の勇気を押し出し、その勇気はまた次の絆を生む。炎が風で広がるのと同じ速さで、優しさもまた広がるのだと、私はここで学び直している。

夕方、門の前で交わされる声が重なる時間になると、一日でいちばん柔らかな空気が流れる。カバンには詰め込めない沢山の冒険を報告する子ども、うなずきながら耳を傾ける親。

言葉は泡のように消えるが、泡がはじけるたびに見えない防火壁が積み上がっていく。

不安や孤独という花火がどこかで散っても、燃え広がらないための壁だ。私はその壁に触れることはできない。しかし、ふと見える。親子の手が、さっきより強く握り直される瞬間。

思えば絆とは、特別な場面だけに現れたものではない。泣きべそをぬぐったあとに残るぬくもり、分け合ったジュースの最後の一滴、訓練で流された小さな汗。

そうした日常の欠片が寄り添い合い、気づけば炎さえ寄せつけない大きな力になる。

かつて私は、ホースの先から放たれる水だけを頼りにしていた。しかし今、私を動かす

のは子どもたちの「一緒にやろう」という合図や、親たちの「よく頑張ったね」という一言だ。

今日この文章を読み終えたあなたが、ほんの一瞬でも隣の人を思い浮かべながら、それだけで絆の火種は灯している。目を合わせて名前を呼ぶ、手を差し出す、黙って話を聞く。

そんな小さな行為が、やがて街全体を守る見えない防火壁になる。

私は、明日も門に立ち、その火種が消えないように見守り続けるつもりだ。やっぱり、絆は大事だ、そう胸に刻みながら。

 

 

安全管理部

坂田隆志

 

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